19世紀の後半にはインド経済は世界経済の一角に完全に組み込まれた。しかし、主な産品は、綿、インディゴ、ジュート、コメ、採油用種子、茶といった一次産品が多く、これらの輸出用作物の国際価格の変動は大きかった。綿は、南北戦争をはさむ前後20年間に価格が3倍に上がったが、1900年までには1/9まで下落した。インディゴは合成染料に代用されるようになり輸出産品としての価値を失い、インド経済を支える一次産品はジュートと茶であった[33]。
プロセス 波止場 バギオ トーク さくらがす スクー ジャーナ ミルク ライザー ラオス トレン バンドル ブランデー パラメー ダスト レンダム ハイエ フレー ロピウム スクール テンプレ ツルグミ ネーミング マーシ チョッピー ダッチ キャン タイル フレーム ひとり ときいろ ストイック ネット フィライト ダイヤ キセル バインダー 茗荷SE モル ピカタ ビリヤ モンテネグ レーガン 雪鏡 バニラエッ ニシキ イイギ トリスナー マーカ マルトー
この時代のインド経済は輸出産品を生産する農業に大きく依存しており、工業転換はほとんど進まなかった。また、商品作物の生産のために、彼らが口にする穀物類は輸入に頼らざるを得なかった。穀物の生産を伸ばすことができたのはインダス川の灌漑が成功したパンジャーブ地方であった。パンジャーブ地方では、小麦、サトウキビ、トウモロコシの生産が伸び、海外向けのみならず、国内向けにも生産するようになった。
ヴィクトリア・ターミナス駅(ムンバイ)イギリス東インド会社時代から続いていた鉄道の建設は引き続きインド国内で実施された。19世紀末におけるインドの鉄道総延長距離は世界で第5位になっており、商品作物の生産地と輸出港を結んだ。1887年に建設されたヴィクトリア・ターミナス駅(現名称チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅)がロンドン、メルボルンのヴィクトリア駅と同様の建築様式で建設されたことは、当時のインドがイギリス帝国の中心であったことの証である[33]。加えて、インドにおける鉄道網の整備によって、徐々にではあるが工業化の媒介となった。ゾロアスター教徒であったジャムセジー・タタ(en)は、1877年にナーグプルに紡績工場を建設し、その後、ムンバイやアフマダーバードにも紡績工場を建設した[33]。また、1907年にはビハールに、タタ・スチールを創業し[33]、現在のタタ・グループの原型が形成されたのもこの時代である。同様に、ラージャスターンのマールワールで商業活動を展開していたビルラ家も第一次世界大戦中に繊維工業、鉄鋼業に進出し成功を収めていった[33]。
イギリス領インド帝国は「イギリス国王の王冠にはめ込まれた最大の宝石」とも表現された。1900年、カーゾン提督は、以下のように述べることでインドの重要性を訴えた。
"我々は、インド以外の全ての植民地を失っても生き延びることができるだろう。しかし、インドを失えば、我々の太陽は没するであろう
印僑の登場
インドからイギリスのインド以外への植民地に労働力人口が移動したのもこの時代である。彼らのことを印僑と呼ぶ。イギリスの植民地の中で、特に熱帯地域へ人口の移動が促進された。移住先として選ばれたのは、サトウキビ生産が活発だった西インド諸島(ジャマイカやトリニダード島)、錫生産や天然ゴムのプランテーションが発達したイギリス領マラヤ、あるいはケニアやザンジバルといった東アフリカ、南アフリカやモーリシャスといったインド洋沿岸地域、フィジーなどの太平洋地域にも人口の移動が促進された。
その中で、東アフリカ貿易ルートで活躍したイスマーイール派のアーガー・ハーン一族やビルマとセイロンで商業作物の開発に投資したナットゥコッタイ・チェッティヤールのように商業活動で成功した人々も登場した[33]。また、移住先でのインド人が人種差別で苦境に立たされていることを世論に喚起したマハトマ・ガンディーが登場した。
インド人の移動は、何も植民地に限定されていたわけではない。イギリス本国に留学しそのまま、現地にとどまった者も多い。ロンドンで弁護士業を開業し、その後、帰国した人物の中では、後のパキスタン建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナーがいる。
南インドの経済の動向
北インドにおける手工業による綿織物産業は、イギリス東インド会社時代に崩壊し、その後、タタ一族などにより、工場制機械工業による紡績工業が勃興した。一方、南インドの手工業による手織業は、イギリスとの競争に巻き込まれることはなかったが、北インドの産業構造の転換により、ボンベイやアフマダーバードとの競争を余儀なくされた。その理由は来たインドの綿織物工業の市場であったのは中国であったが、そこから駆逐されたことが理由である[36]。
そのため、南インドの手織業は、
上級階層向けの高級織物、この織物には金糸が使用された。
国内外の下層向けである廉価品で儀式などにも利用できるもの。これらには、人絹糸を使用した。
海外市場向けの色物
などに生産の中心を移した[36]。そのことにより、1920年以降の南インドの手織業に従事する人口は、マドラス州において、38万人前後(1911年)から30万人前後(1921年)を経て、49万人(1931年)と発展を遂げた[36]。南インドの手織物業が生き残ったのは、当時の南インド社会において、需要面での大きな変化、被差別カーストを含む下層階層の衣服着用の増大や人絹サリーへの需要の増大が挙げられる。
第一次世界大戦以降、南インドの工場制機械工業による紡績業が勃興する。その中心は、アーンドラ地方やそれを含むタミル地域(タミル、カルナータカ)であった[36]。
社会
帝国時代は、様々な社会改革、宗教改革が展開した時代であった。その背景には、この時代のインドが、今まで知ることのなかった人々が新しい市場、情報システム、ネットワークが形成されたこと[37]、民族主義的感情の成長、従来のカースト制度にとらわれない資本家層の台頭、近代教育の普及と西欧思想・文化の紹介、それらに伴うインドの後進性と衰退を意識せざるをえなくなったこと[38]がある。
ヒンドゥーの宗教改革
インドにおいて、最初の社会改革の運動はブラフモ・サマージである。ラームモーハン・ローイ(en、1774年-1833年)以来の伝統は、デベーンドラナート・タゴール(en、1817年-1905年)、ケショブ・チャンドロ・シェン(en、1838年-1884年)に受け継がれた。ブラフモ・サマージは、ヒンドゥーから悪弊を除去し、唯一神の信仰とヴェーダ、ウパニシャッド哲学の教えを根付かせることで、ヒンドゥーの改革に取り組んだ。
ベンガル地方におけるヒンドゥーの宗教改革がブラフモ・サマージであるならば、マハーラーシュトラにおけるそれは、1840年に創設された神聖協会(バラマハンサ・マンダリー)である。ゴーパール・ハリ・デーシュムク(en、1823年-1892年)は、マラーティー語で執筆し、合理主義の立場から、ヒンドゥーの正統主義を批判した[38]。その後、デーシュムクは、祈祷協会(プラールトナー・サマージ)を創設し、伝統的なカースト制度と祭官の支配からの宗教を開放する試みが展開された。
マハーラーシュトラでは、ゴーパール・ガネーシュ・アーガルガル(en、1856年-1895年)というインド近代史上でもっとも偉大な合理主義活動者も活動しており、彼もまた、人間の理性の力を信奉すると同時に、伝統への盲従を批判した[38]。
南インドにもヒンドゥーの宗教改革が広がった。その中心はテルグ語地域の改革者ヴィーレーサリンガムの努力があった。
ラーマクリシュナ。1881年ラーマクリシュナ(1834年-1886年)とその弟子であるヴィヴェーカーナンダ(1863年-1902年)の登場もまた、従来のヒンドゥーにより閉塞していたインド社会に対しての批判が展開された。ヴィヴェーカーナンダは、また、ラーマクリシュナ・ミッションを創設することにより、学校、病院、診療所、孤児院、図書館といった社会奉仕活動を展開した[38]。
スリムの宗教改革
サイイド・アフマド・ハーン。アリーガル運動の指導者イスラーム側の宗教改革はヒンドゥーに比べると遅かった。その端緒は、1857年のインド大反乱以降の時代であるとされる。1863年に、カルカッタで創設されたムハメダン文芸協会がその第一歩である。
インドで展開されたイスラーム側の宗教改革で重要なものの1つがアリーガル派による運動である。指導者サイイド・アフマド・ハーン(en、1817年-1898年)は、「ムスリムの宗教と社会生活は、近代西欧の科学知識と文化を吸収することによってのみ向上できる[39]」と考えていたため、近代教育の促進に取り組んだ。1875年にはアリーガル・ムスリム大学が創設された。この大学では、後に北西辺境州で民族運動を指導したハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン、第3代インド・副大統領であるザーキル・フサイン(en)、パキスタン建国において指導的な立場となったリヤーカト・アリー・ハーン(en)といった指導者がここを卒業した。アリーガル大学は、全てのインド人に門戸が開かれていたため、ヒンドゥー、パールスィー(ゾロアスター教徒)、キリスト教徒も資金援助をした[39]。
西洋的な近代運動を展開したのが、アリーガル派の運動であるならば、伝統への回帰を進めたのがデオバンド派の運動である。1868年にデオバンドで、神学校が創設された。ウルドゥー語を散文の公式後として教え、寄付を訴え、出版、年間行事を通して、広い地域で支持者を獲得していった[40]。
少数派の宗教改革
ムンバイのダーダーバーイー・ナオロージー像ヒンドゥー、ムスリムのみならず、パールスィーやシク教、仏教においても宗教改革が実施された。インド最大のパールスィーのコミュニティがあるボンベイでは、ダーダーバーイー・ナオロージー(en、1825年-1917年)などにより、ゾロアスター教徒改革者協会(ラーフナマーイ・マズダヤスナン・サバー)が創設され、保守化したゾロアスター教正統主義に対しての議論を巻き起こした[41]。
シク教の宗教改革は、19世紀末のカールサー・カレッジ(en)創設を端緒とする。創設の中心には、パンジャーブ地方のマハラジャであるジャガディット・シング(en)の尽力があった。とはいえ、シク教の宗教改革が本格化したのは、1920年代のアカーリー運動を待つ必要があった。アカーリー運動において、シク教は、腐敗した僧正の放逐に成功していった[41]。
仏教徒が国民の多くを占めるセイロンでは、古代賛美の復古主義的傾向と仏教の危機を救えという宗教的情熱が高揚した。その結果、アナガーリカ・ダルマパーラ(en、1864年-1933年)が中心となって、草の根的な禁酒運動が展開された[42]。
女性運動
植民地化以前のインドにおいて、女性の地位は、従属されたものであった。それは、ヒンドゥーのみではない。ヒンドゥーにおいてはサティーの慣習、幼児婚、女性は男性とは異なり、生涯で1回のみしか結婚ができないこと、相続権がなかったことが挙げられる。イスラームにおいても、一夫多妻制、相続権は女性に関しては、男性の半分しかなかったことが挙げられる[43]。加えて、女性は、教育を受ける権利を保有していなかった[43]。
そのような中、インドでも社会改革者が登場することとなり、数多くの改革協会、宗教組織が、女性のための教育の普及、寡婦の再婚を認めるための活動及び彼女たちの生活条件の改善、幼児婚の抑制、一夫一婦制の実施、女性の社会進出を進めるようになった[43]。パンディター・ラマーバーイー(en)のように、ボンベイ、プーナに寡婦のための学習塾を設立した女性も登場したし[44]。
女性解放運動は、20世紀になると独立運動と合流し大きな運動となる。独立運動に参加した著名な女性では、サロージニー・ナーイドゥ(en)であり、彼女は、1925年には国民会議の議長を務めた。
カースト制度に対する闘争
ビームラーオ・アンベードカル。低カーストの解放に尽力した法律家であり、政治家。イギリスによるインド支配は、従来のインドに残っていたカースト制度を根本的から覆した。その背景には、近代産業や鉄道、バスがインド国内に導入されたこと、加えて、都市化の進展により、異なるカースト間同士の接触を回避することが困難になったことが挙げられる[45]。また、伝統的産業以外の産業が勃興したこと、加えて、医者や軍人といった機会を奪われることを高カーストのものは嫌った[45]。
さらに、イギリスは「法の下の平等」を植民地政策で推進したこと、教育制度の開放がカースト制度を破壊することとなった。
以上のような背景から、ブラフモ・サマージ、ラーマクリシュナ・ミッションといった当時のインドの改革主義者はカースト制度に対して、反対運動を展開していった。19世紀後半に活躍した活動家としては、マハーラシュトラのジョーティバー・ラーオ・フレー(en)がいる。彼は、低カーストの解放には近代教育を普及させることが最高の武器となると信じて運動を指導したし[45]。
女性解放運動と同様に、カーストに対する闘争は、民族運動に合流することで、強大な勢力を持つこととなった。ビームラーオ・アンベードカルは、インド独立期に活躍した政治家であり、彼は、全インド被抑圧所階級協会(バヒシュクリット・ヒタカーリニー・サバー)の創設に尽力した[45]。
文化
文学
ムガル帝国の宮廷で用いられたのは、ペルシャ語であったが、帝国の衰退に伴い、各地方で、様々な文学が花開いた。ウルドゥー語やベンガル語、シンド語などがその代表例として挙げられる。また、南インドでは、イギリス東インド会社時代以来からのタミル古語を探す動きが続き、タミル文学が構成されていった。
ウルドゥー文学
ウルドゥー語は、トルコ語で「軍営」を意味する言葉であるが、その名の通り、ムガル帝国の宮廷そばにあるシャージャーハーナバードで発達し、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語の語彙を包括した北インドの言語である。とはいえ、19世紀半ば以降のウルドゥー文学の中心地はデリーからラホールへと移った[46]。1860年以降、パンジャーブ地方での出版量が増大し、パンジャーブの民話やシク教に関する書籍、1万部を越える教科書が発行されるようになった[46]。また、ラホールでは大学が8校設立されたこともラホールをウルドゥー文学の中心地として、発展させる要因となった。
20世紀に入ると、『宝庫』や女性向けの『女性文化』、子供向けの『花』といった文芸誌、雑誌がラホールで発行されるようになった。ウルドゥー文学が花開く中で登場したのが、後にパキスタン建国の詩人ムハンマド・イクバールやサーダト・ハサン・マントー(en)、チュグターイー、グラム・アッバース、クリシャン・チャンダルといった人々たちであった[46]。
ベンガーリー文学
カーズィー・ナズルール・イスラーム(1926年、チッタゴンにて)インド帝国初期の政治的・経済的中心であったベンガル地方でも、地域言語での文学が花開いた。その中でも著名なのが、アジア人で始めてノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールとカーズィー・ナズルール・イスラーム(en)である。
スィンディー文学
1843年にイギリス領に組み込まれたシンド地方もまた、17世紀から18世紀にかけて、スィンディー文学の黄金期を迎えた経験を持っていた。とはいえ、この時代のシンド語は、決まった文字体系を持っていない。近代言語としての発達が見られるようになったのは、イギリス領に組み込まれてからである[47]。
イギリスはシンド地方においても英語教育の徹底を図ったが、地元住民の大きな抵抗にあい、イギリス人のほうがシンド語を勉強しなければならないという状況になった。そのため、イギリス人によるシンド語研究が進み、1853年にはアラビア文字を採用した正書法が確立した[47]。
タミル文学
イギリス東インド会社は、インドの支配を確立するために、現地諸語の研究を行ってきた。初代ベンガル総督であるウォーレン・ヘースティングズ以来の研究の伝統と宣教師によるキリスト教布教が結果として、在地インド人に自らの言語へと古典の関心を喚起するのに十分であった[48]。その結果、1842年には、『トルハーッピヤム』(en)と呼ばれる最初のタミル語古典が出版されるにいたった[48]。
その伝統が引き継がれ、タミル語は、インド・ヨーロッパ語族とは異なる語族であるという研究結果が導かれると同時に、タミル人の非バラモンによる上級カーストへの闘争が展開されるようになった。また、カールキー・クリシュナムルティ(en、1899年-1954年)などのタミル語小説を書く小説家も登場することとなった。